資本主義の歴史 ユルゲン・コッカ著
資本主義の起源と拡大を考察することは、歴史的に形成されてきた仕組み、そして現在の我々の立っている基盤を省みることでもある。
グローバリズムとナショナリズムの関係性を問い直し、行き過ぎた資本主義をどう「埋め込む」か、という問題に直面するのかもしれない。
以下、要約。
そもそも資本主義という概念とは、批判の精神、理念としての社会主義との比較を通して生まれたという。
今日まで読まれ続ける古典的思想家として、カール・マルクス、マックス・ウェーバー、ヨーゼフ・シュンペーターの名を挙げる。
コッカによると、マルクスによる資本主義の概念についての4つの主要要素とは、
① 分業と貨幣を前提とする発達した市場を要す
② 限界のない蓄積、自己目的化された資本形成と持続的増加
③ 生産手段をもつ資本家・企業家と、生産手段をもたない労働者、契約に拘束されるが、それ以外では自由な賃金、俸給を得る労働者との緊張関係〈資本主義的生産様式〉
(その他の様式として、マルクスは共同体的、奴隷的、封建的、共産体制的様式を描いた。段階的、進歩史観的なこの図式は、プロレタリアによる革命で最終的に共産体制的生産様式になるというが、この革命論の支持者はごく僅かだろう。)
④ このシステムのダイナミズムが伝統的なものを解体し、グローバルに広がり、経済以外の領域に拡がる。資本主義的生産様式が社会、文化、政治のありようを規定していく。
(いわゆる経済システムの〈下部構造〉が〈上部構造〉を規定するというもの)
マルクスが描く資本主義像は、彼が生きた19世紀後半の西ヨーロッパの社会状況に大きく影響されている。彼は、この産業革命後の「工業資本主義」を念頭において思想を紡いだ。
本書はもちろん、マルクスの描いた図式で概観する訳ではない。
マックス・ウェーバーは、資本主義を西洋近代化という包括的な文脈で捉えた。マルクスによる工業時代に固定化されたこの概念を解放した。
ウェーバーによる資本主義的経済行為とは、予想されるリスク、損失、利益の秤量とコントロールすること。企業家とはこの目的合理性を備えなくてはならない。その資本主義の精神を16世紀以後のプロテスタント、カルヴァン主義者の倫理の内に見た。(対照的にヴェンナー・ゾンバルトは資本主義の発達をユダヤ人が果たしたという。現在ではそのどちらのテーゼも疑問が投げかけられているが。)
また彼は、何世紀にもわたる資本主義の発展が経済外的な要因、つまり政治、法、国家、戦争、国家による財政需要に依存していたことを示しつつ、資本主義システムが政治に対して相対的自律性を前提とすることを明らかにした。そして、経済外領域までその原理を貫徹させる「文化意義」を資本主義が有するという。
それ以前の資本主義と区別し、この特有の資本主義を「近代資本主義」と呼んだ。
近代資本主義のみが西洋においてのみ成立し、このことは西洋の国家形成の形に影響を受けていると考えた。
しかし、資本主義の合理性を明らかにしつつも、経済効率の持続的上昇がすべての人々の豊かの増大を伴うとは限らないことを強調した。
最終的にウェーバーは「根本的で、結局のところ逃れることのできない非合理性」を見たのだった。
自身の内から変わっていくイノベーション。新たなものが生まれることを、要素、資源、可能性が結合されることのうちに見出した。
そして新たなものの導入が古いものな置き換え、時に破壊を意味することを「創造的破壊」と呼んだ。
彼は資本主義が、人類史上かつてなかったような物的な豊かさと個人の自由をもたらした、と確信していた。しかしながら、資本主義の没落を予言した。それは、資本主義の原理が諸領域に広がることで、資本主義を可能にした社会的な前提条件を損なうと。例えば大家族という社会制度は、資本主義が進める道具的合理化と個人化の精神によって掘り崩されると。
今日では、これらの理論に綻びや批判が加えられているにせよ、資本主義の分析において、未だ大きな土台となっている三者である。
マルクスに連なる系譜として、ローザ・ルクセンブルク、レーニンがいるが、彼らの帝国主義論を発展させたのが、近代以降の世界を一つの社会システムと捉えるイマニュエル・ウォーラーステイン、ジョバンニ・アリギらであり、資本主義研究のグローバル化を前進させた。〈世界システム論〉
以下は、非資本主義的環境のなかのマイノリティとしての資本主義の発現から現在までを概観するため、コッカによる資本主義の概念の基礎付け。
① 資本主義は個人・集団の所有権と分散的決定を基礎とする。
② 資本主義においては、さまざまな経済的アクターの調整が、市場と価格、競争と協働、需要と供給、商品購入と販売を通じて行われる。商品になること。分業と貨幣経済が前提となる。
③ 資本が根本を成す。将来における利益を追求するために現在における貯蓄と収益の再投資がなされる。
【続く】
民俗学 宮田登著
民俗学など全く関心などなかったのに、異文化に触れたりしたせいか、自らのアイデンティティについて考えざるを得ないことに気づいた。
学問の大部分が明治以降、西洋から輸入され発展してきたが、唯一、民俗学だけが民間の研究者によって担われきた、という。
それは、国学者の本居宣長(1730〜1801)、平田篤胤の江戸期に遡り、その問題意識とは失われゆく日本古来の風習への関心だった。
驚くべきことに、この頃すでに本居は江戸の都市化を憂いている。つまり人の往来が活性化し地域性がなくなること。
そして、都市も田舎も古代文化は消滅し、海山の辺境の地を記録すべきだと言っている。
約150年後の柳田國男(1875〜1962)も同じ意識を共有していたことが分かる。
郷土の崩壊、消えゆくものへのまなざしから、明治後期から郷土研究を開始する。
それは郷土そのものを研究するのではなく、郷土人の意識を通じて日本文化の原型を取り出そうとする。
柳田の生きた明治大正とは日本が近代化し、都市化、大衆化していく時代。柳田の危機的意識には保守的態度が垣間見える。
おそらく、保守思想とは失われていくものに対するまなざし、態度なのだと思う。
著書に戻ると、柳田國男と菌類学者にして博覧強記の南方熊楠(1967〜1941)は民俗学的アプローチにおいて、ひとつ対立する。
それは、柳田民俗学は日本文化の原型を取り出そうと試みたのに対し、南方民俗学は比較民俗、比較文化論的視点から日本文化を研究し、最終的に人類文化の普遍性を解明しようとしたことによるのだという。
海民と山民、漁師と猟師文化の密接的な交流。
山神と海神の接点。
ケ(常態、気、エネルギー)→ケ・ガレ(枯れ)→ケガレ(穢れ)→ハレ→ケ という循環論。
失われたものが、今新しく感じることがある。
発見がある。
人類哲学序説 梅原猛著 【続き】
梅原は、ハイデガーの詩的世界、存在の哲学も現代文明の救済の哲学とはなり得ないという。
ハイデガーの主張するその思想とは、詩をつくるのは人間のみ、言葉をもつのは人間だけで、「存在」は言葉によってしか現れないというからだ。
新約聖書のヨハネ伝の冒頭には「はじめに言葉があった」とある。この西洋思想の伝統を、ハイデガーは受けている。
また、旧約聖書『創世記』においては、デカルトの近代理性を絶対視化する契機をすでに含んでいるという。
西洋哲学者、知識人の哲学思想、近代西洋文明の源泉とは、まさにユダヤ・キリスト教であり、ギリシア哲学の知的伝統の上に聳え立っている。
そこから梅原は、西洋人にとっての西洋文明の源泉であるヘレニズム(ギリシア文明)とヘブライイズム(ユダヤ文明)をさらに遡及していく。
宗教以前、一神教成立以前の世界を遡るのだ。
考古学者の吉村作治の説を引用し、プラトンのイデア論の源流を古代エジプトの霊魂の二元化にあるとし、またモーセによるエホバの一神教を、古代エジプトのファラオであるアクエンアテンによる、当時の多神教を排し、太陽神ラーの変形で、唯一神アテンを絶対化する宗教改革に起源を見出す。
そして、ニーチェ、ハイデガーらの哲学の源流であるイオニア自然哲学、その万物の根源(アルケー)とは「地火水風」であるが、そこには太陽がないと。「自然に帰れ」とはいうものの、古代エジプト源泉の太陽神ラーや豊穣の神イシスまでは遡及しないという。
梅原は、西洋知識人にとっての思想の源泉は古代ギリシアであってほしいという、無意識の構造があることを指摘する。
そして、考古学をもとにさらに進め、太陽崇拝の系譜に注目するのだ。
太陽崇拝には、水の神、いわゆる豊穣神を伴っている。
太陽は沈み、また昇る。それは死と再生を象徴する。
日の出とともに咲き、日の入りには萎む蓮の花は、古代エジプト王家の紋章であり、ヒンズー教では聖なる花、仏教では法の華だ。
ヒンズー三神(シヴァ、ブラフマー、ヴシュヌ)の上に太陽を最高神とするバリ文化、そして日本の天照大神(アマテラス)。太陽崇拝は稲作、農耕文化でもある。
源流としてのエジプト文明まで遡り、文化、宗教で共通するモチーフから、ユーラシア東西を繋いでいく。
歴史をさらに遡ると、狩猟採集、漁撈採集文化、先史時代である。
ようやく、日本の縄文思想「草木国土悉皆成仏」の思想へと遡及する。
梅原によれば、『万葉集』では鶯や蛙も歌を詠む主人公になるという。宮沢賢治の文学にはアイヌのイヨマンテをモチーフにした題材、伊藤若冲の『動物綵絵(さいえ)』には観音が動植物に変わり、森羅万象が描かれているという。
文学、芸術、思想に脈々とアミニズムが底流に流れていると。
インド由来の仏教は、日本のこの土着の思想と混合し、「草木国土悉皆成仏」の思想を生んだ。
生命が循環する流転の世界。弱肉強食の世界がありながら、そのようにありのまま受け入れるという…
梅原の論考(講義録だが)は、そのあと西洋哲学から「人類哲学」になること、自然と共生する科学、哲学へと問題を提起し、終わる。
本書が人類哲学「序説」と名付けたのは、ルネ・デカルト『方法序説』から。
懐疑、分析、総合、枚挙・再検査。あらゆる学問的基礎の方法論となっている。
日本思想の部分は情緒的に終わった感もするが、デカルトの方法序説に則って西洋哲学を批評し、新たな原理を求めようとした。
それは人類学、考古学を渉猟したものであった。
ただ、やはり梅原の論考をみ、果たして日本哲学、日本独自の哲学原理はありうるのか?と疑問に思う。日本固有のものを探ろうとすると、どうしても情緒的なものになるのかもしれない…
【追記】
本書では言及していないが、ニーチェのニヒリズム、永遠回帰、大衆民主主義(ポピュリズム)批判など、現代社会を考察する上で、充分に有効な思考ツールとなるだろう。
また原子力時代において、ハイデガーの「技術への問い」も、再考されている。
縄文文化については、アイヌ民族がその継承者であることは考古学、民俗学的に実証されている。縄文人による山岳信仰、祖先崇拝も神道、仏教に受け継がれている痕跡があるように思う。
メソポタミア、エジプト、インダス文明も孤立して多発的に興ったのではなく、交流、文化の伝播があったと、グローバルヒストリー研究は教えてくれそうだ。
新たなる「序説」が待たれる。
人類哲学序説 梅原猛著
以前、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んだ。
認知革命、農業革命、科学革命、シンギュラリティへと、700万年前からの人類史を概観しながらも、我々はシステムに絡め取られてるのではないかと、文明を批判している。果たして文明は進歩したが、幸福になったのか?と問題を提起している。
そのことを思い出しながら、梅原猛『人類哲学序説』を読む。
梅原は西洋哲学に学び、その後、その限界を感じ日本文化、思想を再考した哲学者。
この著書では、現代文明の危機、とくに原発事故による文明災を自省すべく、科学技術文明を生んだ西洋哲学を批判し、それに対置しうる新たな可能性を日本文化の古層から取り出そうとする。
草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)。
一木一草のなかに仏性が宿るという意味だが、日本文化の古層にはこの天台本覚思想が流れているという。
そして、その思想の底流には縄文人の思想、森の思想があるという。
草木にも仏性が宿るという発想はインド原始仏教にもなく、中国でも道教に由来があるというが主流にはならなかったようだ。
西洋哲学の概観。
近代哲学の父、デカルトは「精神」「理性」「実体」を「他のものの存在に拠らないもの」と規定した。それは「身体」「物質」「機械」を操作可能とし、機械論的な法則で世界を従わせることができるとした。そして近代科学の発展はデカルトを祖とし、ニュートン以下、現代科学文明へと続く。
ニーチェは「権力への意志」こそが人間の本性であり、ルサンチマン(怨恨)こそ弱い人間の本性だという。
キリスト教の「神の国」、弱者救済思想のなかにルサンチマン、権力意志の否定、地上でけっして叶えられない価値観の大逆転が起こっている。そして、このルサンチマンを受け継ぐのが民主主義、社会主義であると、批判をする。
梅原は、西洋知識人の多くにとっては、ニーチェを心の奥底で共感しているのではないかという。キリスト没後1000年後にエルサレムにいたのはイスラム教徒だったし、2000年にバチカンに籠る人は一人もいなかったと。神の国はもう来ないと。
神の国を失ったが、人間は進歩してきた。しかし、その進歩史観も幻想に過ぎないとニーチェはいう。
すべてが幻想だ、といことになると人間は悲観する。その極まったものが虚無主義、ニヒリズム。
すべてが虚しく、生きるに値しないという思想になる。
ニーチェは、その消極的ニヒリズムを積極的ニヒリズムに変えるのが「永遠回帰」だという。
それは、現在の世界と同じことが、遠い昔にも存在し、遠い未来にも存在し、この世界は何も変わらない、同じ世界が永遠に続く、という思想。
これを引き受けて、生きよ。これが、ニーチェのいう「超人」。
(明らかにインド哲学の輪廻の影響がある。)
このニーチェの影響を受けたのが20世紀最大の哲学者、ハイデガー。
ダーザイン(現存在、人間)は日常性のなかに頽落し、人に気を遣い、自己を失い、主体性をもたない。そして、この主体性をもたないダスマンの世界、大衆、民主主義に対して強烈に批判する。
しかし、死を先駆的に自覚した人間観を「実存」「エキジステンツ」といい、頽落している人間が死を覚悟することにより全面的に自己に目覚めるという。(実存主義)
ちなみにニーチェはハイデガーも民主主義を否定し、その超人思想は、ナチスの思想的バックボーンとなっている。
ハイデガーに戻る。
ハイデガーは、デカルト以来の近代理性の裏には意志があるという。
それは世界を自分の前に立った表象に還元し、自我による世界支配の哲学になったと。
プラトンのイデア論にすでにその萌芽があり、デカルトによって自我を基体とし、自我が絶対者になったと。
そして、このような世界支配の理性哲学がヨーロッパ哲学の伝統になる。
ハイデガーは、ニーチェの哲学、いわゆる意志の哲学をデカルト、カント、ヘーゲル系譜に縫合した。
ハイデガーは、当時の冷戦、広島、長崎の原爆投下に言及し、理性よりも意志が先行する、凶暴な意志の支配として技術支配の高まった時代だという。
そして原子力エネルギーを生産に利用するというところで、すでににその死の世界が始まったともいう。
後期ハイデガーは救いの思想を求め、詩的な心情的内面空間への回帰の必要性を説く。(存在の哲学)
ソクラテス以前の古代ギリシア哲学へ回帰せよ、自然へ帰れ、と。
このように梅原はこの西洋の代表的な哲学者たちを引き合いに出しながら、しかし、ハイデガーをもってしても、文明の危機を克服する思想とはなり得ないと。
それはまだまだ人間中心主義なのだと。
【続く】
カネと暴力の系譜学 萱野稔人著
カネを巡る、国家と資本の起源についての哲学的考察。
国家とは合法的な物理的暴力を行使できる共同体であると、社会学者マックス・ウェーバーの有名な定義を引用しつつ、国家による税の徴収力の源泉がここにあると言う。〈暴力への権利〉
また、国家の起源について、哲学者ドゥルーズとガタリの論を引き、もともとは「大土木工事の事業主」だったと述べ、それはアウトローの世界にもおける類似性を指摘し、「労働の組織化」をもった権力という意味では全く同じ構造性をもつという。
では、何故、国家だけが合法的な暴力が独占できたのか?
ここでもドゥルーズ=ガタリからの引用。「国家による超コード化」というプロセスを経て、つまり暴力の法化プロセス、圧倒的な暴力が他の暴力を取り締まり、法を決定する構造的暴力に支えられているということだった。力の論理だ。
我々の多くは国家の由来をホッブズ、ルソーによる社会契約説に基づいた、暴力的な自然状態から自発的に権利の一部を権力に委ねたと認識しているかもしれないが、ウェーバー、ドゥルーズ=ガタリの国家論はこの期待を全く裏切るものだ。
しかし、歴史が我々に教えてくれるのは、原始社会、ナチスが政権を握った時、日本が敗戦した時、それは後者についての国家像ではなかろうか。
ところで資本について、それは人々がカネという〈富への権利〉を欲したり必要とし、より多くの〈富への権利〉を獲得しようとすることが、資本の自己増殖を稼働させる。
国家と資本は人の労働による成果を自分のものにできる上記の〈暴力への権利〉及び〈富への権利〉という二つの運動に対応する。
近代以降の資本主義の成立とは、これまで君主制の下で一元化されていた〈暴力への権利〉と〈富への権利〉が分離したことによって特徴づけられる。
そして国家と資本に共通する点とは、他人の労働の成果を自分のものにすること。この収奪、搾取といった現象をとらえることが、社会の成り立ちを考察する上で重要だ。
ドゥルーズ=ガタリによる税制論では、国家が貨幣形態における税を作り出したという。
ふつう貨幣は、交換や商業上の必要からうまれたと考えられるが、交易上の都合ではなく、富を吸い上げるためだという。税が貨幣を作りだす。
そして国家による暴力の実践から切りはなして引き継ぐのが資本主義。
これらはマルクス主義的な支配構造の図式、下部構造の資本が土台として、上部構造の国家を決定するという図式とは全く違う。そしてマルクスがいう貨幣の成り立ちの仮説とも真逆だ。
税による貨幣の成り立ちの論考は、仮想通貨を考える上でも一つの示唆になると思う。
また、ドゥルーズ=ガタリの国家論によると、一時期世論を賑わした国家緊急権をそういうものだと認識させることになる。
まずは道徳的価値観を一度括弧に入れ、〈べき〉論ではなく〈である〉論で考える。この認識論に学ぶことは多い。
資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 マルクス・ガブリエル マイケル・ハート ポール・メイソン 斎藤幸平編
NHK「欲望の資本主義」で話題となった哲学者、マルクス・ガブリエルの「新実在論」理解のために読んだ。
ガブリエルのいう「新実在論」の意味するところは、「ものが存在するそのままのあり方に、態度を合わせよ。」ということ。
存在する事実を承認し、その事実に態度をあわせること。
なんとも言えないシンパシーを感じる。
と同時に、西田幾多郎、井筒俊彦など西洋と東洋哲学の架橋を試みた東洋思想家たちを想った…
(何かしら共通項や合流点がありそうな予感)
西洋中心主義など近代哲学の負の部分を解体し乗り越えようとしたポストモダン思想は、中心的価値観の抜けた、相対主義に陥ってしまった。いわゆる大きな物語の終焉である。
我々が生きている時代とは、まさにこのポストモダン的状況で価値観を喪失したニヒリズムに陥っていると、多くの識者たちによる共通認識となっている。
そのポストモダンの行き着いた先が、SNSやフェイクニュースに代表されるように、客観的事実など重視されない、ポスト真実と呼ばれる現在の状況である。
ガブリエルの新実在論は、このポストモダン的ニヒリズムを乗り越えようとする。
存在するあらゆる領域に対して、意味を見出そうとする。これを「意味の場」と呼んでいるが、現実についての客観的事実を確立する方法だ。資本主義、民主主義から映画、漫画まで、たくさんの「意味の場」がお互いに重なり合ってる。ただし、一つの全体的、統一的領域は考えない。これが「世界は存在しない、ただしユニコーンは存在する」の真意だった。
新実在論はデカルトに始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーらが心血注いできた主客認識論をも一新する。
いわゆる〈私〉という主観が認識する〈世界〉が実在するのであって、〈私〉がいなくなれば〈世界〉は存在しない、ということ。主体が認識するから客体がある。単純化すると、あくまで〈私〉あってこその〈世界〉。
これらをガラガラポンだ。
(フッサール現象学は〈私〉のほかに他者からの視点も入れ、〈世界〉観の蓋然性を高めたと言える。間主観性。信念対立を超える可能性があるようで、西研や竹田青嗣の「欲望論」は注目中。ただし分厚い。)
考古学や天文物理学の発展した現代において、この認識論では限界があるからだ。
我々はもはや46億年前に太陽系が誕生したことを知っているし、700万年に人類が誕生したこと、甲斐駒ヶ岳や大雪山に縄文人の石器が残されてたことだって知ることが出来るから。
哲学もアップデートしている。
自由、平等、人権、民主主義など近代哲学が残した普遍的理念、価値観を擁護しつつポストモダン的相対主義を乗り越える哲学。
気になる哲学者。
リベラリズムの終わり その限界と未来 萱野稔人著 【続き】
パイの分配論において、現代リベラリズムの古典、ジョン・ロールズ著『正義論』の読み直しも府に落ちた。
ロールズのリベラリズムは功利主義的で条件付きリベラリズム。けっして無条件ではなかった。
そもそもパイの分配はリベラリズムに基づく哲学原理ではなく、功利主義、ナショナリズムに基づく原理。リベラリズムの限界を認識した上で、分配論については別の哲学原理を機能論的に適用。
というか、パイの分配については我々は無自覚にナショナリストになっている…
J・S・ミル由来の個人の自由を尊重する古典的リベラリズムから、平等を求める現代リベラリズムへ何故飛躍したのか?またそこから派生したリバタリアニズム。その考察も一読価値あり。