五日市憲法 新井勝紘著
明治初期、自由民権運動のなかで生まれた民衆による民衆のための憲法草案があった。
正式名称「日本帝国憲法」。
五日市の民権派を中心に起草されたから、のちに「五日市憲法」と名付けられた。
大日本帝国憲法が全76条あるのに対して、五日市憲法草案は204条もあった。
欽定憲法であったものの、特筆すべきは、国民の基本的人権とその不可侵性、そして国家による保護を明確にしており、基本的人権と司法権の項目だけで、全体の3分の1にもなる。
イタリア、ポルトガル、スペイン、スイス、オーストリア、プロイセン、オランダ、デンマークなど8ヵ国の憲法を参照にしており、現在の日本人が読んでも、その先進性が分かる。
明らかに国権の濫用を防ぐ内容となっているのだ。
その中心を担ったのが、仙台出身の千葉卓三郎(1852〜1883)。儒学、医学、国学、浄土真宗、ギリシア正教、プロテスタントのメソジスト派と学問を遍歴し、ハリストス正教会では洗礼を受け、熱心に布教活動も行っている。ちなみに1874年には神仏不敬罪で投獄もされている。
数々の学問遍歴ののち、28歳で五日市で教師となり、その傍ら民権派の憲法草案に加わり、起草の中心となる。
1881年秋、自由民権運動の立志社が中心となって設立した国会期成同盟の第三回大会が予定され、そこで全国2000近くもある結社から憲法草案が提出、審議が行われるはずだったが、変わりゆく政治状況の中で大会は開催されなかった。
五日市憲法はまぼろしとなり、千葉は結核により31歳という若さでこの世を去る。
その後、およそ80年の歳月を経て、歴史学者の色川大吉とそのゼミ生の新井勝紘らによって、このまぼろしの憲法が発見される。
(民間宗教の背景)
神社、寺の分離
氏神の統合
民間修験道禁止
国家神道へ
(民衆共同体と国家)
〈講・結〉→〈社〉へ変貌→民権派結社
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国家による弾圧