Yoshitake Hashimoto

読書メモ 読書を繋ぐ 繋げる読書 交差する思想

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ 國分功一郎著

忘れられた17世紀の哲学者、バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)について。

そしてその現代的意味を問う。

 

近代哲学はデカルト(1596-1650)を父祖とし、その認識論はカントに引き継がれ、ヘーゲルを頂点とする。

スピノザデカルトと同時代に生きたが、彼の哲学が再評価され日の目を見るのは、ニーチェフーコードゥルーズポストモダンの哲学者たちによる。

 

●自由意志という虚構

デカルト哲学の心身二元論は、「精神」「主体」「理性」が「物質」「身体」「客体」を意のままに操作できるという認識論は、カント、ヘーゲルらにそのまま引き継がれ、「近代的主体」、「自由意志」といった概念も生むとともに、それは近代科学の基礎づけ(観察→分析→総合→観察→分析……)でもあり、現代科学の発展に寄与する。

「自由意志」。それは、個人はその意志により行為をし、その行為の結果の責任を取るという、現代の自己責任論に繋がるものであるが、現代脳科学の研究は、この「自由意志」なるものに疑義を唱えてようだ。

そして、スピノザは350年も前に、この「自由意志」なるものの虚構性の萌芽をデカルト哲学の中に看破していたといわれている。

「自由意志」という名で、我々は自らで何かを選択、決断しているようでも、意識の深層では様々な影響、要因のもとに「自由意志」を作り上げているのだ、という深い洞察がスピノザにはある。

このことは近代以降の個人の精神的自立を説き「近代的主体」による様々な理論が、虚構の上に成り立つことを示唆することでもある。

 

●神について

スピノザ哲学のフレームワークとも呼べる要諦は、「神即自然」「神=自然」。

神と自然を同格とみなしたスピノザは、当時ユダヤ教徒の家系に生まれたものの思想としては異端であった。

ただ、スピノザの「神=自然」とは、人間、動物、植物あらゆるものを包摂する宇宙のような存在、いわば自然科学、科学哲学的なものだと國分は言う。イメージとしては、宇宙始源のビックバンが起こり太陽系、地球誕生、生命誕生、人類誕生の一連の歴史を想起すれば良いのだろう。

生物、物理、生態学と親和性をもち、現代的解釈としても、人間は「神=自然」の一部であるということが理解できる。

スピノザの古典は時代の風雪に耐え、現在もその輝きを失っていない。

 

スピノザの人間観と国家論

古代ギリシアの哲学者、アリストテレスはものごとの本質をエイドス(形相)、プラトンイデア(理想)にもとめた。

しかし、これは男性なら〇〇であるべき、女性なら〇〇であるべきといった、べき論、道徳論となる。

それに対してスピノザは物の本質を「コナトゥス(力、傾向)」に求める。そして、善悪を組み合わせ、状況、シチュエーションの問題とした。

それは様々な初期条件がありながらも(例えば生まれた環境は個人は選べないし、手足の身体的な可動域には限界はあるなど)、個々人がそれぞれの関心のもとに自らの能力を高めて、自己変容していくこと。日々、実践と実験、反省を繰り返す。

何処か自らの外部にあるのではなく、「コナトゥス」に従い自己変容を遂げる。それがスピノザのいう「自由」への回路。

これはニーチェ哲学にも通底することでもある。実際、ニーチェスピノザから影響を受けている。

自ら価値を高め、それぞれがそれぞれのやり方で関係性を結べば良いという、スピノザの国家論、社会契約論は魅力的。何よりも価値観が多様化する社会状況で、復古的で偏狭なナショナリズムでない、開かれた政治的統合原理を備えている。

 

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