人類哲学序説 梅原猛著
以前、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んだ。
認知革命、農業革命、科学革命、シンギュラリティへと、700万年前からの人類史を概観しながらも、我々はシステムに絡め取られてるのではないかと、文明を批判している。果たして文明は進歩したが、幸福になったのか?と問題を提起している。
そのことを思い出しながら、梅原猛『人類哲学序説』を読む。
梅原は西洋哲学に学び、その後、その限界を感じ日本文化、思想を再考した哲学者。
この著書では、現代文明の危機、とくに原発事故による文明災を自省すべく、科学技術文明を生んだ西洋哲学を批判し、それに対置しうる新たな可能性を日本文化の古層から取り出そうとする。
草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)。
一木一草のなかに仏性が宿るという意味だが、日本文化の古層にはこの天台本覚思想が流れているという。
そして、その思想の底流には縄文人の思想、森の思想があるという。
草木にも仏性が宿るという発想はインド原始仏教にもなく、中国でも道教に由来があるというが主流にはならなかったようだ。
西洋哲学の概観。
近代哲学の父、デカルトは「精神」「理性」「実体」を「他のものの存在に拠らないもの」と規定した。それは「身体」「物質」「機械」を操作可能とし、機械論的な法則で世界を従わせることができるとした。そして近代科学の発展はデカルトを祖とし、ニュートン以下、現代科学文明へと続く。
ニーチェは「権力への意志」こそが人間の本性であり、ルサンチマン(怨恨)こそ弱い人間の本性だという。
キリスト教の「神の国」、弱者救済思想のなかにルサンチマン、権力意志の否定、地上でけっして叶えられない価値観の大逆転が起こっている。そして、このルサンチマンを受け継ぐのが民主主義、社会主義であると、批判をする。
梅原は、西洋知識人の多くにとっては、ニーチェを心の奥底で共感しているのではないかという。キリスト没後1000年後にエルサレムにいたのはイスラム教徒だったし、2000年にバチカンに籠る人は一人もいなかったと。神の国はもう来ないと。
神の国を失ったが、人間は進歩してきた。しかし、その進歩史観も幻想に過ぎないとニーチェはいう。
すべてが幻想だ、といことになると人間は悲観する。その極まったものが虚無主義、ニヒリズム。
すべてが虚しく、生きるに値しないという思想になる。
ニーチェは、その消極的ニヒリズムを積極的ニヒリズムに変えるのが「永遠回帰」だという。
それは、現在の世界と同じことが、遠い昔にも存在し、遠い未来にも存在し、この世界は何も変わらない、同じ世界が永遠に続く、という思想。
これを引き受けて、生きよ。これが、ニーチェのいう「超人」。
(明らかにインド哲学の輪廻の影響がある。)
このニーチェの影響を受けたのが20世紀最大の哲学者、ハイデガー。
ダーザイン(現存在、人間)は日常性のなかに頽落し、人に気を遣い、自己を失い、主体性をもたない。そして、この主体性をもたないダスマンの世界、大衆、民主主義に対して強烈に批判する。
しかし、死を先駆的に自覚した人間観を「実存」「エキジステンツ」といい、頽落している人間が死を覚悟することにより全面的に自己に目覚めるという。(実存主義)
ちなみにニーチェはハイデガーも民主主義を否定し、その超人思想は、ナチスの思想的バックボーンとなっている。
ハイデガーに戻る。
ハイデガーは、デカルト以来の近代理性の裏には意志があるという。
それは世界を自分の前に立った表象に還元し、自我による世界支配の哲学になったと。
プラトンのイデア論にすでにその萌芽があり、デカルトによって自我を基体とし、自我が絶対者になったと。
そして、このような世界支配の理性哲学がヨーロッパ哲学の伝統になる。
ハイデガーは、ニーチェの哲学、いわゆる意志の哲学をデカルト、カント、ヘーゲル系譜に縫合した。
ハイデガーは、当時の冷戦、広島、長崎の原爆投下に言及し、理性よりも意志が先行する、凶暴な意志の支配として技術支配の高まった時代だという。
そして原子力エネルギーを生産に利用するというところで、すでににその死の世界が始まったともいう。
後期ハイデガーは救いの思想を求め、詩的な心情的内面空間への回帰の必要性を説く。(存在の哲学)
ソクラテス以前の古代ギリシア哲学へ回帰せよ、自然へ帰れ、と。
このように梅原はこの西洋の代表的な哲学者たちを引き合いに出しながら、しかし、ハイデガーをもってしても、文明の危機を克服する思想とはなり得ないと。
それはまだまだ人間中心主義なのだと。
【続く】